16年前を思い出す(震災)

もう16年になるんですねぇ。しばれる冬になると思い出す1月17日もそろそろ近い。
(暖冬だと余り思い出さない。)



朝、何故か4時頃に早起きて題目をあげていた。
この頃は下の子は未だで今は亡き上の子が未だ小さい頃だった。
突然ガタガタっと揺れたので慌てて仏壇を抑えた。
少しすれば収まって母子共に慌てて起きた。
奈良は震度4で奈良にしては珍しい大きな揺れでした。
当時は団地の1階に住んでいたので家が壊れるとかいう心配は全くしていなかったが
心配なのでテレビでニュースを見始めたがサッパリ要領を得ない。
神戸の方が大変らしいという事だけしか判らない。
こういう時は自分の目で確かめておこうと2日前に購入したばかりのスクーターで会社方面へ
行く事にする。嫁様が反対したが出発。



普通の道は混んでいるかも知れんし全体を見渡したいので単車通行禁止の十三峠から行く。
山の上まで特に何も無かった。
峠の上から眺めてみると眼下の東大阪や大東は特に代わり映えしない。
それ以遠も特に何も無い。だがずーっと向こうの神戸方面ではモクモクと煙が上がっていた。
これは只事ではないな・・・と感じる。


先ずは山を降りて東大阪の数社の顧客の処へ様子を聞きにいった。
工場顧客で設備がひっくり返ったりしていなか心配だったのだが大した被害は無かった。
ではこれから更に西へ行って見る、というとアンタ気つけや・・・と心配してもらった。
大阪市北区の勤務先に行ってみると案外出社している。
神戸方面の社員は誰も来ていない。


これはアカンで、和田よ、お前スクータやったら見に行ってくれよ、という事に。
では行きます、
しかし和田よ、手ぶらではアカンからというと支店長がこれで食料をそこら辺で買え、
水も持てるだけ持って行け
という事になり非力なスクータはヨロヨロでした。
それでも流石に7馬力、人力とは違いどんどん進める。
先ず十三大指を渡ろうとすると出口でえらい段差が。
そして橋を渡る毎に被害が酷くなる。
車もえらい渋滞でこれは単車で正解であった、車では全然動かない。
建物も相当壊れだしてきた。
それでも裏道とか通ってやっと甲子園浜の1軒目の社員の子の処へ到着。
一家共々えらい不安だったのか喜んでくれた。大荷物えらいので此処で全部降ろす。
買えるだけ買った食糧も全部渡した。何でも近所で分けて使うという事であった。



被災一家の心配する声を後ろに更に前進。
もはや国道は大渋滞で用を為さない。動いているのは単車ばかりである。
後3人。でも苦労して2人の家まで行ったが既に非難していたのか居なかった。
もう一人は明石なので大丈夫やろう、という事でそこまで行くのは止める。
当時は高かった携帯電話を駆使して会社と連絡を取りつつだったが会社に戻り皆に状況を
報告してからは流石に全員深刻な顔付きに。そらそうやね。
支社長の一声、和田よ、お前は当面は仕事もアレやけど救助活動もやれ、そっちも大事やと
英断を下してくれた。
で、結局はこの1月から4月中旬まで被災者のサポートが主たる仕事として動いていた。



まぁ会社の資金なんて無いんですが当時入っていたニフティの自転車フォーラムでは
サブシスをやっていた。
シスオペは名古屋の百野氏が中心になり皆で協力して被災者を助けようやという事になる。
私が銀行に公開口座を1個作り自転車フォーラムの多くの方が募金をそこへ入れてくれる。
この時は全国の仲間の心遣いが非常に有り難かったです。いい仲間です。
それを使って生活に必要な物を購入しパッキング。
そして現地へ運んだ。
最初は手探りでやっていたが徐々に現地サポート隊も出来たので前進基地を1個設定しパックした
荷物は一旦そこへデポ、そこからサポート隊が持てる範囲で自転車やスクーターで出動。
現地でもボランティアを取りまとめる本部が出来て自転車フォーラムの皆さんは主に西灘を中心に
動いて欲しい
という事になり支援活動もスムーズに進みだした。


怖いなーと思ったのは壊れた阪神高速、行きと帰りで形が変わっていた。
一度倒れたり崩れたりしていた阪神高速は時間と共に更に崩れていってたのだ。
そばを走ると時折上からドシャーンと道の一部が落ちてくる。
それでもその下で懸命になり救助活動をしている人達には頭が下がりました。


43号線より海沿いの新在家には酒造メーカーが多かった。
そこの1件もお客さんで要請が有って数度行ったけど最初に行った時は酒の大きなプールというか
容器が壊れていて辺りに足を踏み入れただけで酔いましたね。
ああ、もう一度行きたい・・・と思いましたわ。



兎に角、懸命になって昼も夜も動いた。
やがて徐々に風景もマシになってきていた。未だ未だ酷かったけどゆっくり回復していた。
そして、その頃は既に暖かい季節になっておりました。